文字サイズ
標準
拡大
色合い
標準

ホーム > 当院のご案内 > 当院の取り組み > 災害対策への取り組み > 各地で発生した災害における活動報告 > 東日本大震災における医療救護班等の活動報告 > 中央病院医療救護班活動報告(宮城県気仙沼市)

ここから本文です。

更新日:2020年1月24日

中央病院医療救護班活動報告(宮城県気仙沼市)

活動概要

日程

6月6日(月曜日)から6月12日(日曜日)まで
※8日(水曜日)まで 小野寺病院長、大沼事務吏員
12日(日曜日)まで 高橋医師、杉本看護師、原村看護師

場所

宮城県気仙沼市
気仙沼市立本吉病院

編成

小野寺昭一医師(病院長)、高橋大輔医師(腎臓内科)、杉本祐介看護師(救急外来)、原村直美看護師(6B病棟)、大沼幹雄事務吏員(病院総務課)

要請元

社団法人 全国自治体病院協議会

活動報告

【活動報告1】気仙沼市立本吉病院について

清掃

気仙沼市立本吉病院は、病床数38、1日平均外来患者70~80人、1日平均入院患者35名、診療科内科のみ、職員数31名、数年前、本吉町国民健康保険病院から気仙沼市に合併される、本吉町約1万1千人の地域医療の砦である。

スタッフ

病院は、沿岸から4Km離れた山中にあるが、3月11日の東日本大地震により1階部分は水没、医療機器は壊れ、ライフラインも寸断。入院患者は内陸へ転院させた。震災から10日間泊まり込みで診療を続けていた常勤医2名が疲弊し辞職。その後1カ月間、徳州会医療救援隊(TMAT)と本吉病院のスタッフが地域医療を守り、現在は全国国民保険診療施設協議会(国診協)の医師らが入り、5月2日から災害救助法に基づく診療を行い、全国から複数の医療チームが支援に来ており外来診療を行っている。

【活動報告2】診療活動

院長

本吉病院看護師は7~8名、千葉、熊本、山形など支援医師は2~4名、支援看護師は2~3名体制。8時から17時まで診察を行い、16時半から翌9時半までの当直勤務を2回行いました。患者数は平日50~60人、土曜日21人で、内科的には高血圧、糖尿病、腎症、浮腫、パーキンソン病などほとんどが定期通院でしたが、診察医が変わるため内服薬の変更や説明不足からの不安がうかがえました。感冒、発熱が多く、水道がでないことで胃腸炎、嘔吐、腹痛、結膜炎になったり、爪の中に泥が残っている方も数名おられました。重症化しそうな高熱の小児、下痢脱水の寝たきりの方は市立病院へ転送になりました。

高橋医師

震災後に認知症が悪化した独居の父の付き添いで来られた家族や、全壊した家の2階に住みながら母が入所している介護施設が被災し職員の代わりに内服薬を取りに来られた家族、手元の薬がわずかしかないが家族に遠慮して病院に行きたいと言い出せず降圧剤をいつもの半分量でしのいでいた高齢者、腰椎圧迫骨折で入院リハビリしていたがやむを得ず退院となり離床が進まない寝たきりの方、腎臓内科の専門医に受診したいが遠方にあるためどうしたらいいかという相談もありました。
がれき撤去に伴う古釘刺傷、裂傷などは男性に多く、中には外人ボランティアの方もいて小切開やトキソイド、グロブリン注射が行われました。草刈りに伴う虫さされ、アレルギー性皮膚炎。震災の影響で少しの物音や風でびくっとする、自分の家は大丈夫だったが、ボランティアを一生懸命やっていてあれから眠れない、と診察中に突然泣き出す方もいました。毎週水曜日は震災後のストレス外来として東北大学の心療内科医の診察を任意で受けられるようになっており、保健師にも連絡するシステムが整っていました。その他、罹災に関しての介護保険の申請・主治医意見書、生活保護申請などの依頼がありました。

【活動報告3】医療者もまた被災者であること

待合室

スタッフの皆さまからお聞かせいただいた貴重な体験を書きとめました。

  • 自分は仕事だった。パパが家にいてくれたから大丈夫って言い聞かせて仕事していた。子供と再会出来た時、それはもう感動で。宮城県沖地震の時は車を高いところに移動したけど津波は来なかったんです。今回はどうします?って言っている間に津波が来て、結婚10年目記念で指輪代わりに買った車が流されてしまった。みんな流されていってしまったからしょうがないです。
  • 病院近くの薬局は3人勤務していて、天井まであと少しの所を頭だけ出して浮いて耐えたそうです。外にでていたら助からなかったでしょう。
  • 4日間不眠不休で病院の泥かきをした。近くに牛小屋があったから牛フンのにおいが凄くって。近くのタイヤセンターのおおきいタイヤも流れてきました。あの時は疲れるっていうことも眠いってこともなかったですね。
  • 車で30メートル流されたが、がれきに漂着して助かった。津波で流された友人はとにかくがれきの下の方に巻き込まれないように水中から頭を出そうとした。浮いたがれきにつかまろうとするとぐるっと回ってしまって、なかなか掴めないんだそうだ。けれど、がんばって近くの浜に上がることができて助かったさ。車で流されて、本吉から6キロも流されて気仙沼にたどりついた人もいる。あーいうのが九死に一生っていうんだろな。
  • 危機一髪で避難したけれど愛犬をそのままに置いて逃げてきてしまって、心の中でごめんねって謝って泣いていたんです。そしたら翌日父が愛犬を抱いて避難所に現れれて感動の再会でした。4度避難所が変わって今はやっと仮設に入ることができた。うちは7人家族だから2つ使っている。自宅は壁がなんにもなくてただ柱だけ残っている。父は造園業やってて、流されてしまったハーレーを頑張ってまた買うんだって言っているんです。
  • 写真
  • 海の近くの小学校は屋上に先生が避難させてくれて助かったけれど、引き波で助けて~っていいながら海に流されていく人をみた子供たちがいて・・精神的なケアが必要じゃないかな。
  • 「7年前に退職金を当てにしてリフォームしたばかり、1階部分は浸水。あと8カ月しか給料もらえないんだ。どーすっべ~かな。」「5,60m高い所に30平米位のちっちゃいの建てて母ちゃんとぼそぼそ暮らしていくかな~。」「船も持ってかれちゃって」「通勤してくるとき(小泉地区)を通ってくる。毎日ゆめじゃないかと思うんだけれども、現実なんだよね。いまだに信じられないっていうのが本当のところです。」
  • 隣のおばちゃんが、津波が来るって。この子はみててやるから早く迎えに行ってきなって言ってくれたので、上の子を車で幼稚園に迎えに行って戻ってきたら、うちの駐車場に車がたくさん止まってて、下にも駐車場があるからそっちに止めるように言ったら、何言ってんだ!これから津波が来るんだぞ!って怒られた。うちは高いところにあるんですよ。そしたら津波が来て。逃げてきてる人のなかにはお年寄りや赤ちゃん抱えている人もいて、すぐにテントを立て始めたんです。手伝ってっ声かけたんですけどみんな津波の方をボーとみてて。だから私は引き波とか見てないんです。あの日は雪が降ってて寒くってすぐに軍手をみんなに配って。翌日は子供が小っさい時着てた、着れない服をかき集めて避難所に配って歩きました。今考えると、もしかしたら自分も車で津波にのまれてたかもしれないですよね。もともとうちは農家だし食べるものはそんなに困らなかったです。キャンプとか好きで良くやってたし。
  • 福島の隣なのに放射線のことなんにも言わないんですよ。自分はいいけど子供がね。近くの牧場で放射線が出たって言うけど、うちの玉ねぎも大丈夫かな。

【活動報告4】これからすべきこと

合同写真

本吉病院への支援活動に参加させていただき、大変多くのことを学ばせていただきました。30年以内に東海地震、3連動地震発生の確率87%と言われています。本吉の風景は、決して他人ごとではないと感じました。甚大な被害に遭われながらも、どうして笑顔でいられるのか理由を聞いてみました。「自分だけではない。みんなが苦しい思いをしていると思うから。」との言葉に心打たれました。たくさんの尊い命が犠牲になりました。「津波てんでんこ」の教訓、継続的な支援、地域連携、それぞれができることをやっていかなくてはならないと思います。気仙沼港、津谷川の復興を祈っています。

関連情報

宮城県気仙沼市での活動報告写真一覧